今年もこの日この時が来ました。1月17日午前5時46分52秒。

阪神・淡路大震災

今だにその日の様子は忘れません。多分忘れろと言われても無理ですが。

このブログで個人的事情を書く事は殆んどないですが、わしが生きている限り来年も再来年も、1月17日は毎年来ます。度々同じ事を書くわけにもいかんけど、今現在のわしを形成するにあたり、そして「広島」に身を委ねるようになった過程でとても重要な出来事ゆえ、書いておこうと思います。



前日、尼崎市武庫之荘に住んでた相方の家に一泊したその朝の出来事でした。

その頃、その前年末くらいから、近くを流れてる猪名川の上流付近を震源地にする小さな地震が頻発しとったんですが、その瞬間は「ついにそのでかいのが来たか」ってな感じやったです。

ただ、揺れ方が尋常じゃない。よく縦揺れだの横揺れと言いますが、悠長にそんなんを感じる暇もなく、最初は小さく「ガタガタ」と言うたかと思ったら、その直後に一気にグワングワンと言おうかドッカンドッカンと言おうか来た感じ。二人で寝てたベッドが大人数で揺さぶられてるような感覚でした。

揺れてたのは1分位やったでしょうか。幸いにも家具が倒れてくるだのといった被害はなかったですが、家具という家具、動かせるものは全て場所が移動してました。

直後、電気は非常灯みたいなのは点いてたように覚えてますが、水ちょっとあいまいです。水道は止まってたような。とりあえず水だけは確保しとこうとして風呂場の蛇口をひねったように記憶してます。ただその行為にたどり着くまで、腰が抜けたようになって暫らくの間立てんかったですが。

少し明るくなり出したんで、窓を開けて外を見てからようやく事の重大さが分かってきました。その当時相方が住んでたマンションの近くを武庫川が流れてたんですが、その向こう岸、西宮市側ではすでに何本もの黒い煙が立ち上ってました。そこいらじゅうからサイレンが聞こえてました。

で、とにかく何か買っておかんといかんってんで、コンビニエンスストアに買い出しに行きました。その道中でも、ブロック塀が完全に崩壊してたり、マンションの前に建ってた木造のアパートが完全に平行四辺形になってたりしました。信号機も一部もげてたりでひどい事になってました。コンビニの店内も全て停電してたので、完全に手探りでのレジ作業。食いもんはもうあんまり残ってなかったです。

マンションに戻ってから、とりあえず自分のマンションがどないなってるんかが心配になり、大阪市内に戻ろうとしましたが、直感的に「交通機関はどこもかしこも、阪神も阪急もJRも何一つ動いてないやろな」と感じ、適当にタクシーを拾おうとしましたが、避難するであろう自家用車と緊急車両で大渋滞。なかなかクルマが動く様子がなかったので、とにかく国道2号線を目指して歩きました。

幸いにも2号線に出るまでにタクシー(電話付)に乗れましたが、当時住んでた西成区まで2時間くらいかかったように覚えてます。タクシーの中の電話も「こんな時だから」てんで好きに使わせてもらいましたが、相方の家にはさすがに繋がらんかったです。堺の実家には繋がりましたが。


3日ほどしてようやく周辺が落ち着いた頃、相方が「広島に帰る」と言いました。ただJRは当然、在来線も新幹線も満足には動いてません。最終的なルートは「立花→京都→福知山→谷川→加古川→姫路→広島」と言う経路。JR神戸線で西には向かえない、福知山線は篠山口あたりまで不通。これが震災直後の、西へ向かう最短コースやったです。

もう手放して久しいですが、今だに忘れられんのが、相方が途中、乗り換えの谷川駅からポケットベルに打ってきた「361(寒い、の意)」の3文字。多分一生忘れられません。


さて、期せずして大阪に取り残されることとなったわし。さてどうするか。

まだその当時、相方と付き合いだしてもうすぐ1年になろうかっちゅう頃。せっかく多生の縁あって出会ったとても好い人。これしきの事で縁を切れるわけがない。ましてや、日本国外に行ってしもうた訳やなし、新幹線なら大阪市内から2時間くらいやろうし、在来線でももちろん行けん事はない。元来「鉄ヲタ」やし。出た結果は実に簡単な事。「俺ら広島さ行くだ」でした。

大変やったですね。

まず一番最初に使った交通手段はJRの臨時特急。乗ったのは2月頃やったでしょうか。新大阪から大阪、そして福知山線・山陰本線・播但線を経由して、姫路から西に抜ける臨時の寝台特急が、熊本と長崎を目指して二本ありました。深夜に寝台から、こっそりカーテンを開けて「和田山」の文字を見て「何で広島に向かってるはずやのに和田山なんぞにおるんやろう」と悲しくなった覚えがあります。

次に使ったのは高速バス。高速昼行路線が増えて来た頃ではありますが、まだ大阪~広島と言う路線は、夜行こそあったものの昼行バスはなく、南海電鉄バスが臨時に出した便に乗った覚えがあります。予定到着時刻よりも2時間くらい遅れましたが、それでも「とにかく着いた」事が嬉しかったです。

最後は「青春18きっぷ」。3月に入って使い出しましたが、最後まで残った在来線の不通区間は住吉~灘間。住吉駅の南側から代行バスが出てましたね。その列に並ぶのが辛くて、タクシーに乗りましたが。灘から先は「ほぼ」時刻表通り。使ったのが3月やったし、時刻表も「在来線は復旧したモノ」として発行されてましたが、新幹線だけは新大阪~姫路間は空白で、別ページになってました。

飛行機も考えました。その当時はまだ関西~広島の航空便が、本数は少ないながらも、コミューター便でありましたが、本数が少ないゆえに、いつ窓口で聞いても一杯で結局は乗れずじまいでしたが。

デンデン。


で、その当時わしはまだ「タイガースファン」をやってました。しかしながら成績はどん底の時期。いわゆる「暗黒時代」ってやつ。相方は生まれも育ちも広島なので当然カープファン。

積極的に野球の話をすることはなかったですが、カープ対タイガース戦で、タイガースが負けようもんなら「そんな弱いチームの応援なんざさっさと辞めちまえ」とよくボロクソに罵られたもんです。

折しもカープは故・三村監督の許で「ビッグレッドマシン」が最盛期を迎えんとする頃。必ずしも助っ人外国人選手に頼り切らないチーム作りは、そらぁ魅力的に見えたもんです。かたやタイガースはオマリーが退団し、グレン、クールボー、石嶺と言う、何の役にも立たんクリーンアップ。

わりと簡単に掌は返せました。

ここからわしの、今現在までの長きにわたる「カープへの道」が始まったのであります。


震災から16年経ちました。長いですね。その年に生まれたお子さんが高校生です。電車から見る神戸の街も、本当に賑やかになりました。ただ、多少コインパーキングが増えたような気もしますが。

広島東洋カープに身を委ねて15年経ちました。満足にAクラスすら入れん散々なシーズンが続いてますが、それでもカープが好きです。広島の街、人、空気。全てがなくてはならんものになりました。

心斎橋筋商店街よりも本通り商店街の方が詳しくなりました。赤い看板を見ると全部「ポプラ」に見えるようになりました。「広島焼」などと言う看板に怒りすら覚えるようになりました。年齢もありますがいつの間にか「わし」と言う言い方に違和感を感じんようになりました。使ってるPCは広島弁に対応してくれるようになりました。そらぁまだまだネイティブKEN-JINの方には到底及びませんが。

先にも書いたように、幸いにもわしは被災したわけじゃないです。身内にも、なくなった人間どころかケガ人すらいません。偶然かも知れませんけどね。ゆえに、無駄にアレコレ語る立場にはないかも知れません。けど、今日と言う日は避けて通れないもので。


そして今はこうやって社会の隅っこながら生きてます。好きな野球も楽しむ事が出来てます。


今、自らが誰かに生かされていることに感謝しつつ、未だに震災の後遺症と戦われてる方々の今後の御多幸と、無念のうちに亡くなられた6434人のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


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2011.01.17 / Top↑
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